《 戦後の政治思想をりードした変節の徒 》

 GHQにおもねり、占領行政を正当化、日本の戦後社会を歪めるもとをつくった知識人 は、大正時代に左翼化の洗礼を受けた東大の学者たちだった。 そのいずれもが、 「ときの権力に媚びる」 「無節操」 というインテリのもっとも悪しき体質の持ち主だった。

 まず一人目は 東大法学部教授の丸山眞男
 昭和26年、サンフランシスコ講和条約の締結にあたって、中国、ソ運の共産圏をよくめたすべての連合国側との講和を結ぶ全面講和か、西側陣営との単独講和かで世論はまっ二つに分かれた。 このとき、単独講和ではふたたび戦争に巻き込まれる危険があるとして、単独講和反対の急先鋒を務めたのが、左派リベラリストの東大総長の南原繁だった。
 南原の主張する全面講和は、現実には絶対不可能な空論だった。 朝鮮半島では米ソが対決していた。 東側陣営も入れた全面講和など実現するはずがなかった。 ただソ連の利益に立ち、世論をまどわしているだけだった。
 吉田茂も、これにはさすがに腹を据えかね、 「 曲学阿世の徒 」 と南原を非難し、 「 全面講和が望ましいのはわかっているが、朝鮮 半島で米ソが対決している現状からは不可能だ 」 と、単独講和で押し切った。
 この南原を師と仰いでいたのが丸山河男だった。 丸山は、ときの権威におもねるという東大的体質の典型のような人物だった。
 大正3年生まれの丸山は、旧制一高時代にかけての十代は、流行していたマルクス主義に傾倒していたが、その後、丸山の思想は時代にあわせてコロコロと変わる
 東京帝国大学を卒業した丸山が法学部助手に任じられたのが昭和12年。 シナ事変が勃発した年だった。
 軍国主義が高まり、マルクス主義者であった東大教授の大内兵衛や有沢広巳が翌年、検挙された。 これを境に、丸山は国粋主義者に転向。 神国日本、一君万民、尊皇思想を唱えはじめる。
 そして敗戦後、GHQの占頷下となると、かつて自らが神国と讃えた祖国を罵倒。 占領軍の意向に添う 「超国家主義」 という尺度を持ち出し、その手先として論陣を張った。 変節につぐ変節を続けた風見鶏の丸山だったが、戦後の政治思想をりードした人物として名を残している。


《 東京裁判を正当化した大罪 》

 もっとも、戦後社会に流した害毒という意味では、同じ 東大法学部教授であった横田喜三郎 のほうがはるかに大きい。 横田の最大の罪は、日本人に自虐史観を植えつけた元凶である東京裁判の擁護・合法化である
 当時、東京帝国大学法学部国際法主任教授だった横田は、昭和22年3月、 『戦争犯罪論』 なる書を上梓し、東京裁判の正当性を訴え、日本有罪諭を展開した。
 このタイミングが、まるでアメリカの意向を推し量ったかのようだった。 当時、進行中だった東京裁判では、結局、起訴されたA級戦犯は有罪にならないのではないかとの懸念が戦勝国利に広がっていた。 昭和21年秋にニュルンベルク裁判の判決があり、戦勝国側は犯罪の立件に失敗し、3人が無罪になっていたからだ。
 東京裁判に関しても、世界中から正当性を疑う声が上がっていた。 アメリカのメディアにもたたかれて意気消沈しているオーストラリアのウエッブ裁判長を、マッカーサ大元帥が激励に訪れたという記録も残っている。
 その空気を吹き飛ばそうとするかのように、日本人の法学者、横田が東京裁判を正当化、日本を有罪だと断じたのである。
 事実、横田は占頷軍のよき協力者だった。 横田の日本有罪論はアメリカの主張の丸写しで、前年2月、ハーバード大学のグリュツク教授が、ある雑誌に寄稿した論文の受け売りに近かった。

 裁かれている日本人の、それも法曹界の権威である法学者から日本は有罪だとのお墨つきをもらったのである東京裁判の流れは変わり、翌年、全員が有罪判決に処せられた横田はその判決文の作成にまで協力している
 横田はアメリカ製の憲法の正当化にも手を貨した。 新憲法が発効した昭和二十二年、それにあわせて『戦争の放棄』を上梓し、 「 今度、戦争が起きれば人類も文明も破滅する。 すべての国が戦争を放棄するとともに世界政府、世界国家とでもいうべき国際組織が必要だ 」 と訴えた。
 およそ現実離れした世界国家論で、憲法九条を正当化したのだった。

 横田は天皇制廃止論者でもあった。 自衛隊を完全否定するとともに、昭和天皇の戦争責任を追及、天皇制の廃止を唱えていた。
 横田の思想の底に流れているのは、 「 脱国家・反国家 」 である。 国家は平和の敵であり、すべての国の秩序は国際的な組織が律するべきであるというのが、横田の考え方だった。 いまの言棄で言えば、グローバル社会、世界は1つという無邪気な理想主義である。
 彼の認識では、 「 来るべき国際社会では各国が仲よく交流し、軍備は必要ない。 日本の憲法は世界に先駆けて、これをかかげたもの 」 で理想的な憲法だった。
 この一見もっともらしい戦争放棄論が、長らく自主憲法の制定を遅らせている原因の一つでもある。
 横田は、日本の外交にも関与した。 昭和三十二年に東大を退官後、外務省の参与となり、GHQべったりだった人物らしく、対米従属路線を定着させたのだ。
 戦後、国益無視、対米隷属、謝罪主義の官僚が次々と生まれた背景にも、横田の大きな影響力があった。 横田の教えを信奉した教え子たちが、東大法学部卒業後、官僚となり国を動かす。 贖罪意識で近隣諸国にカネをばらまき、国家否定の横田思想で国益を顧みない。 長いものには巻かれろとばかり、アメリカに追従する ……。
 横田喜三郎もまた、大正の進歩的ムードのなかで青春時代を送っている。 国家否定の思想も、当時の左翼的な考え方に影響された結果生まれたものだった。
 横田の東大的な体質は、その処世術によく表れている。 GHQの占領政策のなかでうまく泳ぎ回り、戦後の民主主義、平和主義を上手に利用して地位を高めた。 そこにあったのは単なる処世術である
 たとえば サンフランシスコ講和条約に関しては、最初は全面講和を唱えていたが、旗色が悪くなるとみるや、単独講和に宗旨替えした。 日米安保条約についても、反対から護憲安保論、日米安保合憲論へと、時宜に応じて要領よく態度を変えた  その論理は底が浅かった が、当時は知識人が混乱のきわみにあり、一見すれば横田の単純明快な論理は受けた。 処世の術として、横田は学者タイプとして振る舞っていたので信用もあり、法曹界で力を持つにいたった。
 抜群の世わたりで横田は栄達を重ね、内閣法制局長官、最高裁判所長官に任命され、勲一等旭日桐花大綬章、文化勲章までもらっている。


《 憲法改正を封じた元凶 》

 三人目は横田と同じく戦後の法曹界をリードした、憲法学者で東大法学部教授の宮沢俊義 だ。 宮沢は美濃部達吉の弟子で、戦後、日本国憲法の解釈、普及、擁護を行った。
 宮沢の有名な思想に 「 八月革命説 」 がある。 これは終戦を決めた昭和20年8月のポツダム宣言の受諾は、すべてをひっくり返す革命だという解釈だ。
 宮沢はこの論理を使ってGHQがつくった憲法を徹底的に擁護し、正当化した。 ポツダム宣言受諾は八月革命なので、それまでの帝国憲法は、その時点で失効する。 また、日本国憲法は革命によってできた憲法なので、以後、一切憲法の改正はできないとした。
 九十六条の憲法改正条項についても、たとえ改正の于続きがとられたとしても、戦争放棄などの憲法の原則には手をつけられない。 それを変えるには、革命勢力が武力によって国会を占拠し、憲法の廃棄を宣言した場合だけだというのである。
 …… なんと奇妙な論理だろうか。 しかし、宮沢はこの論理を振りかぎして憲法の制定、擁護に大きな力を発揮した。 当時、宮沢は貴族院議員でもあった。 憲法学者でもある宮沢の意見の影響力は強く、議会の審議をりードした。
 宮沢は憲法制定後も、官界、司法界、学界、政界、言論界へと散る敦え子たちに終始一貫して、憲法擁護論を説き、憲法改正の芽を摘んだ。
 宮沢もまた例に漏れず、変節の徒だった
 終戦直後の昭和20年秋までは、なんと 「ポツダム宣言を受諾したからといって憲法を変える必要はない。 明治憲法下で民主化は可能だ」 と主張していた のだ。 それが GHQの肝いりでつくられた 「政府案」 が出されるや否や、護憲派に鞍替えする。 「これほどすばらしい憲法はない。 日本はこれで救る」 と。

 行きすぎた個人主義を助長し、家族の崩壊を招く元凶をつくったのも、東大の法学者たちだった その張本人は、のちに文化勲章を受章した民法学者、東大法学部教授の我妻栄 である。
 我妻の考え方は、 「 我妻民法学 」 と言われるほど、法律家の間で主流の一つになっている。 我妻民法学の大前提は 「個人だけが基本」 で、個人以外の人間関係は、すべて手かせ足かせにすぎず、断ち切ったほうがいいとの考え方だ。
 つまり、家族や国家などというものは、抑圧や害になると言っているに等しかった。 こうした我妻の思想の背景には、マルクス主義の唯物史観があった。 階級関係や経済構造が人間の価値観をも支配する。 ゆえに人間関係は排除せよというのである。
 我妻は戦後の民法だけでなく、数多くの法制整備に関わった。 日本の家族制度がおかしくなったのも、こうした我妻の考え方が戦後の法律に反映されているからだ。

 いままで見てきた4人はみな、GHQの占領政策に迎合し、その法律的根拠、思想的根拠をひねり出し、日本人の洗脳に貢献した。 まさに日本をダメにした売国奴たちである。
 しかも、みなただの法学者ではない。 日本社会を支配するパワーエリートたちの最高の養成機関である、東大法学部の教授だ。
 官僚、政治家、経済人、知識人 ……、日本の戦後の指導層が、こうした学者の元で歪んだ思想を植えつけられて社会に送り出され、戦後の日本をつくったのだ。