謝罪国家への道を開いた総理は誰か

 日本が謝罪国家、堕罪国家に転げ落ちる契機をつくった大罪人として、まずあげなければならないのは 宮沢喜一元総理 である。
 いまから20年あまり前の昭和57年、鈴木善幸政権下で起きた 歴史教科書誤報事件 にさかのぼる。 同年6月25日、高校の日本史教科書に聞する検定結果が発表された。 このとき、文部省記者クラブの記者が検定申請時に、中国華北地方に対する 「 侵略 」 の記述を文部省が 「 進出 」 と書き換えたと勘違いし、全新聞が一斉に報道した。
 この記事に怒りの声をあげた中国が、外交問題として大騒ぎをした。 ちょうどその年の9月に鈴木総理の訪中が予定されており、このあおりを受け、取りやめになる危機が高まった。
 そこで当時、宮房長宮だった宮沢喜一氏は事態を収拾すべく 「 政府の責任において修正します 」 と謝罪を表明し、鈴木訪中も実現した。 本来なら、誤報であり事実がないのだから中国側にその旨伝えればすむ。 だが、宮沢宮房長宮は誤報と知りながら、無責任にも謝罪してしまった のだ。
 仮に誤報でなくとも、他国の教科書に注文をつけることは内政干渉である。 突っぱねてしかるべき問題だ。
 宮沢官房長官は、謝罪しただけでは満足しなかったのか、政府は11月 「 教材用図書検定基準 」 に 「 近隣諸国の国民感情に配慮する 」 との、いわゆる 「 近隣諸国条項 」 を盛り込んだ。
 この悪しき前例が、その後の中韓両国によるわが国教科書への干渉を許すことになり、正しい歴史は排除され、反日的記述は無 条件でパスするようになってしまった。
 事実に反してまで謝罪した宮沢氏の罪は、いくら告発しても足りない。 だが、当の宮沢氏はその後も、この件について一度も日本国 民に謝罪せず、総理にまでなってしまったのだから、いったいこの国はどうなっているのか。

 平成3年11月、宮沢内閣が誕生する。 この前後から韓国・朝鮮の戦争被害者と称する人々の訴訟があいついだ。
 11月12日、韓国・朝鮮人BC級戦犯とその遺族ら7人が、1億3千万円の国家補償を求め、東京地裁に提訴、12月6日には元従軍慰安婦と名乗る女性や軍属らの 「 太平洋戦争犠牲者遺族会 」 が一人あたり3千万円の補償を要求して、これまた東京地裁に訴えた。
 
 これに事実関係も調べずに応じたのが、加藤紘一官房長官(当時)だ。 平成4年、加藤官房長官は 従軍慰安婦問題に触れ、旧軍の関与を公式に認め、謝罪してしまった。 直後、訪韓した宮沢総理は、韓国国会で公式に謝罪した。
 さらに、この年の暮れ、改造された宮沢内閣の官房長官になった 現衆議院議長の河野洋平 が、韓国の従軍慰安婦問題では強制連行があったと認める発言を行う。 根拠がないにもかかわらずである


日本を侵略国にした歴史的犯罪

 宮沢が端緒を開いた謝罪国家への道を決定的にしたのは、細川護煕総理 だった。
 平成5年、自民党政権が倒れ、非自民六党連立与党で細川内閣が誕生した。 8月6日総理に就任した細川氏は、就任後、はじめての記者会見に臨んだ。 その席上、記者の 「 先の戦争をどう認識しているか 」 という質問に対して、総理はこう答えた。
 「私自身は、侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」
 先の戦争とは、あらためて確認するまでもなく、大東亜戦争(太平洋戦争)を指している。
 さらに、8月23日の国会における所信表明演説に 「 わが国の侵略行為や植民地支配などが、多くの人々に耐えがたい苦しみと悲 しみをもたらした 」 という一節を盛り込み、国会の席上で言明した。
 日本の総埋が国政の場で 「大東亜戦争は侵略戦争で、日本は侵略国だ」 と断じたのは、戦後、はじめてである。
 なんと思慮の浅い軽率な発言か。 一国の最高責任者、総理にあるまじき歴史観、国家観なき言葉か。 当時、あきれ果てただけでなく、怒りさえ覚えた。
 中韓の両国をはじめ、近隣諸国や欧米各国から戦後、大東亜戦争は侵略戦争だと決めつけられても細川総理以前の歴代総理は、頑として認めなかった、少なくとも国益を損なうことがわかっていた。
 一国の総理が、侵略戦争をやったと認める。 これは決定的な意味を特っている
 西欧でできた国際法において、第一次世界大戦(1914~18年)まで 「 侵略 」 なる概念は存在しなかった。 「 文明の低い 」 地域は無主地とみなされ、これを戦争によって植民地化するのは自由だと考えられていた。 住民を奴隷化するのも自由なら、虐殺するのも勝手。 これが当時の国際法の原則で、欧米列強は競ってアジアやアフリカ、南米などの有色人種の地域を植民地とし、住民を虐殺、奴隷化していった。  こうした欧米の有色人種蔑視、虐待に立ち上がったのが、当時、有色人種の国で唯一欧米列強と肩を並べた日本だった。 1919年、日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を入れるよう要求したが、否決された。
 欧米の植民地主義に疑問を投げかけるきっかけとなったのは、第一次世界大戦の惨禍である。 あまりにも大戦の被害が大きく、無差別に戦争を行えば、世界は破滅に向かうとの反省が起こり、1928年、アメリカ国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンが 「 国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する 」 との不戦協定を結んだ(ケロッグ・ブリアン協定)。
 このとき、はじめて決められたのが、侵略戦争と自衛戦争の区別だった。 といっても明確なラインが引かれたわけではない。 その国が侵略戦争と認めれば侵略戦争、自衛戦争と主張すれば、自衛戦争という結論である。
 戦争にはお互いに言い分があるので、こういう規定にしかならなかったのだ。 ゆえに韓国に侵攻して朝鮮戦争を引き起こした北朝鮮 も、クウェートを占拠し、湾岸戦争に発展させたイラクも侵略が明々白々ながら、侵略戦争とは認めていない。
 この国際法に照らし合わせれば、細川発言がいかに決定的な意味を持っているかわかるだろう。 日本の総理が、過去の戦争は侵略戦争で日本は侵略国だと断じたのだ。 諸外国は誰はばかることもなく、戦争責任を追及し、賠償金を要求できる。
 はたして細川発言の翌月、来日したメージャー・イギリス首相は細川総理に 「 捕虜になったイギリス人に日本政府は捕償すべきだ 」 と申し入れた。 このときの細川総理の答えがまた軽率だった。 「 何らかの形で償います 」 と約束をしてしまったからだ。
 あとは一瀉千里。 中韓両国はもちろん、オランダからも、アメリカからも、オーストラリアからも 「 わびろ。 カネをよこせ。 当時の苦痛と損害を日本政府は補償すべきだ 」 という声が噴き出した。 当時の苦痛と損害を日本政府は補償すべき  さらに細川総理は11月に訪韓した折、「 わが国の植民地支配によって、朝鮮半島の方々が、母国語教育の機会を奪われたり、姓名を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦、徴用などで、耐えがたい苦しみと悲しみを体験された事に加害者として、心より反省し、陳謝したい 」 とわびた。
 祖国を堕罪賠償国家に転落させた細川総理の罪は、歴代総理のなかでももっとも重い


贖罪国家を完成させた総理

 細川政権が倒れて、次に登場した 羽田孜総理 も謝罪路線を引き継ぎ、「 わが国の軍事行動は、近隣諸国を侵略して耐えがたい苦痛と悲しみを与えたばかりでなく、わが国民に多大な犠牲を与えもたらした 」 と言明した。
 羽田総理の発言ではアメリカの原爆投下によって亡くなった約30万人の市民を殺しかのも、無差別空襲で25万人を虐殺したのも、日本人だということになる。 こんなバカな話を平気で言う。 祖国のために散った英霊やその遺族の心を傷つける発言だった。
 羽田政権は短命で終わり、自社さきがけによる連立政権が発足。 平成6年6月、社会主義政党である社会党の 村山富市委員長 が総理の座につき、謝罪主義は最高潮に達した。
 終戦後50年を控えた平成7年6月9日には、日本の戦争責任を認める 「戦後50年国会決議」 などという、噴飯ものの決議が衆議院本会議で採択された。
 と同時に、村山内閣は土井たか子衆議院議長を団長とする謝罪使節団を、中韓両国をはじめとするアジア諸国に派遣した。
 このとき、マレーシアのマハティール首相やフィリピンのラモス大統領に、「50年前の戦争をなぜわびるのか。 イギリスやアメリカは侵略してもわびない」 と逆にたしなめられたとのエピソードが残っている。
 村山はそれでもまだ足りない、日本の侵略行為が明確に盛り込めなかったとして、同年8月15日総理官邸で記者会見し、「戦後50年の首相談話」 として、「日本の植民地支配と侵略によって、多くの人々とくにアジアの諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」 と発表、大東亜戦争は侵略戦争と断定し 「痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明いたします」 と頭をたれた。
 さらに11月には 「首相の韓国大統領への書簡」 を送り、土下座外交を完成させた。
「 …… 19世紀後半から急速に生じた、大きな力の差を背景とする双方の不平等な関係のなかで、韓国併合条約とそれに先立つ幾つかの条約が締結された。 これらの条約は、民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない。 私は8月15日の談話で、国策の誤りを認め、わが国が多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止めることを表明した。 あらためて、植民地支配の下で、朝鮮半島の人々に耐えがたい苦しみと悲しみを与えたことについて、深い反省と心からのおわびの気持ちを表明する。 この条約が韓国国民の心に残した、いやしがたい傷の深さをあらためて胸に刻んだ。 過去に対する痛切な反省があってこそ、未来志向の日韓関係を築き上げることができるというのが、私の揺るぎない信念だ。 …… 」
 それより4ヵ月前の7月、元従軍慰安婦に対する償いを目的とする財団法人 「 女性のためのアジア平和国民基金 」 (略称 「 アジア女性基金 」 )が設立された。 その運営費用はすべて日本政府の負担である。

 村山内閣の方針は、歴史に対する深い考察もなく、勉強もしない日本の政治家たちの間に浸透、以後、安易に謝罪をする風潮ができあがった。
 ちなみに村山内閣下で副総理兼外相を務めたのは、宮沢内閣の官房長官時代、従軍慰安婦談話を出した河野洋平現衆議院議長である。 村山&河野コンビは戦後政治史上、最大の汚点を残したと断罪したい
 贖罪国家を決定づけた細川内閣も、それを完成させた村山内閣もともに、不安定な連立内閣だった。 政治の混迷によって日本の最高責任者になるべきではない器の人間が総理になり、日本は謝罪国家に堕ちた。 これはわれわれ国民も肝に銘じておくべきだろう。


おわびの手紙が定着した原因

 村山内閣のあとを受けて総理に収まった 橋本龍太郎総理 も謝罪路線を引き継いだ。
 平成8年6月、「 創氏改名などが、いかに多くの韓国の方の心を傷つけたかは想像に余る。 ( 従軍慰安婦問題に問しては )これはどの女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はない。 心からおわびと反省の言葉を申し上げたい 」 とコメントし、終戦記念日を翌日に控えた8月14日には、韓国の元従軍慰安婦と称する人々に 「おわびの手紙」 を送った。
 さらに終戦記念日当日にはアジア諸国民への加害に言及、「 深い反省と哀悼の意 」 を表明した。
 のみならず、橋本総理は売国奴と言わざるを得ない行為を繰り返した。 橋本が総理の時代、韓国の大統領は金泳三だった。 全泳三大統領は近年の歴代大統領のなかでも竹島の実効支配に、もっとも努力した韓国の指導者である。
 平成9年1月、大分県別府市で日韓首脳会談が行われた。 全大統領と握手する際に橋本総理は左手で右手を支えて差し出した。 この奇妙な仕草を見て批判したのは西村眞悟氏( 当時、新進党衆議院議員 )。
 「儒教的に臣下の礼をとると言われる握手をする必要があるのか」
 橋本総理はこう反論した。
 「東洋の場合、お客を招けば礼を尽くして迎えるのが普通だと思う。 よいか悪いかは(各人の)判断で、国辱というのなら甘んじて受ける」
 橋本総理はその前年の訪韓時にも袖をまくり上げる動作で臣下の礼を示したり、「 目下の者から注がせていただかないと 」 と酒を差 し出すなど、金泳三大統領に対して卑屈な対応を続けてきた。
 一国の指導者が他国の指導者に対してこのような態度を取ればどうなるか。 個人的な親愛の情を示すといったレベルでは留まらない。 「貴国の属国です」 と宣言したに等しい国辱的行為である。 わが日本の領土である竹島が、韓国によって実効支配されるのを黙認したと言ってもいい。
 橋本総理はあたかも中韓の傀儡政権のようであった。 竹島だけでなく、尖閣諸島の領有権に閣しても、中国の顔色をうかがい続けた。 石原慎太郎氏のサポートを受けて、西村眞悟氏が、国会議員としてはじめて尖閣諸島の魚釣島に上陸視察を敢行したのは平成9年5月6日のことである。
 この西村氏の視察に対して橋本総理はこうコメントした。
 「土地の所有者が上陸を拒否し、その意思を伝達しているにもかかわらず、それを一切無視して行動する権利が、国会議員といえどもあるのか」
 上陸するのなら、土地の所有者に許可を取って行けというのだ。 西村氏の反論はこうだ。
 「総理はいつから地主の顧問弁護士になったのか。 領土問題という国家主権の問題を、地主の意向という個人の問題に矮小化するのは本末転倒である。 そもそも総理が守ろうとする土地所有者は日本国の領土の上にあり、その権利は領土の上に整えられた法秩序、すなわちわが国の主権があってこそ守られるのである。 その日本国民の土地所有権を、尖閣で 『風前の灯火』 にしているのは日本政府の無策であり、それを放置できないからこそ上陸したのである」
 どちらの主張が正しいかは論じるまでもない。 一国の最高責任者の最大の責務である領土の保全を、近隣諸国との摩擦を恐れ、放棄した うえに問題をすり替えて、やむにやまれず上陸を決行した西村氏を非難するとは。 これが日本の総理の見識かと思うと、言葉さえ出ない。 日本の領土への中韓の不法上陸には形式だけの抗議に終始し、やむにやまれぬ憂国の行動には 「関係が悪化するから」 と自粛を申し入れるだけでなく、国内法違反だとして罪に問うのでは、まさに属国の指導者というほかはない。
 まさか橋本総理には、一時期マスコミをにぎわせた 「中国人の愛人」 が本当におり、中国に弱みをにぎられていたのだろうか。 たし かに西村氏の弁護士としての名義貸しはいただけないが、憂国の情がどちらに多くあるかは明白である。

 日本の総理の謝罪路線に話を戻そう。
 小渕恵三政権、森喜朗政権は謝罪路線を修正しようとしたが、小泉政権 の誕生で元の木阿弥である。
 平成13年11月、総理就任後、はじめて訪韓した小泉総理は 「 日本の植民地支配により韓国の国民に対して多大な損害と苦痛を与えたことに対し、心から反省とおわびをする 」 と記者団に語り、翌年には橋本路線を踏襲して、元従軍慰安婦にあて 「 いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。 私は、日本国の内閣総理大臣としてあらためて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます 」 との手紙を送っている。
 新政権ができれば謝罪が慣例となり、いまでは与野党を問わず政治家の多くが 「日本は侵略国家である」 と信じている。

 たとえば、民主党の元党首、菅直人。 「 日本は何よりも、アジアの植民地支配と侵略戦争に対する明瞭な責任を果たさずに今日を迎えて 」 として民主党の基本政策に元従軍慰安婦への深い反省と謝罪をかかげている。 二大政党制のかけ声で、現実的に自民党に対抗できうる勢力と期待されているが、歴史観、国家説示、いまの民主党にはまったくない。
 
 菅も前代表の 岡田克也 も 「 靖国神社には参拝しない 」 と明言している。 元党首で現幹事長の 鳩山由紀夫 は、縦軸派の要素があったが、菅には微塵も感じられない。
 民主党に政権交代すれば、現在よりさらに謝罪外交が進みかねない

 





踏襲必要ない村山談話

 村山談話は第二次世界大戦で日本国が、「 国策を誤り 」 「 植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた 」 と反省と謝罪に徹している。

 小泉純一郎首相は日中関係に軋轢あつれきが生じた時、右の談話を複数回にわたって引用し、謝罪した。 だが事態は収まらなかった。 なぜか。

 それは村山談話が、外交において諸国はあくまでも対等であること、戦争も平和も一国で成すものではないとの大原則を踏まえていない からだ。

 当時、一方的に謝罪した日本に、中国も韓国も 「 今後の日本の態度に注目する 」 との冷淡な反応を示しただけだ。 そして江沢民政権は日本に永遠に歴史問題を突きつける戦略を採り続けた。

 村山談話には出自の卑しさも目立つ。 それは同談話の閣議決定に至る過程に明らかだ。 まず談話の前段として95年6月9日の 「 歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案 」 があった。

 「 謝罪決議 」 と通称される同決議は 「 我が国が過去に行ったこうした( 数々の植民地支配や侵略 )行為 」 に 「 深い反省の念を表明 」 する内容だ。

 官報によると、同決議採択のための衆議院本会議の開会は95年6月9日午後7時53分、山崎拓氏らが提出してあっという間に可決、7時59分に散会となった。 この間、わずか6分である。

 この間の経緯を当時衆議院議員の西村眞悟氏が『 諸君!』05年7月号に次のように書いた。

 自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、決議案が上程されても否決されることが明白になった。

 すると6月9日の金曜日、「 本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし 」 との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。 そのすきを狙ったかのように、土井たか子衆院議長が金曜日の午後8時近くという遅い時間に本会議開会のベルを押した。

 結果として265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決。 だが、参議院は採決を見送った。

 どう見てもこれはだまし討ちだ。 精神の卑しさを強調するゆえんである。

 せっかくの決議なのに権威もなく、評価もされない。 そこで村山首相らは次に総理大臣としての談話を出す道を選んだ。

 95年8月15日、氏は、学者や谷野作太郎外政審議室長ら少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、古川貞二郎官房副長官が読み上げた。 「 閣議室は水を打ったように静まり返った 」 と報じられた。

 事前説明なしで突然出された談話に、閣僚は誰ひとり反論していない。 自民党にとってこのことこそが痛恨の一事だ。 細川護煕政権の誕生で下野し、理念の全く異なる社会党の、首相たる資格の片鱗へんりんさえ備えていない人物を首相に据える禁じ手を以て、自民党はようやく政権を取り戻していた。

 自信喪失のただ中で、自民党は真っ当な価値判断を下し得なかったのだろう。 だからこそ、戦争は一方の国が全面的に悪であるが故に始まるものではない、日本は日本の落ち度を認めるけれども、そのことと日本ひとりが悪いと自ら決めつけることは違うと、本来の自民党ならば言えたであろうことが言えなかったのだろう。

 村山氏は談話で 「信義を施政の根幹とする」 と誓ったが笑止千万である。 氏ほど手ひどく信義を裏切った政治家は珍しい。

 首相に就任するや、氏はそれ以前の立場を反転させて 「 自衛隊合憲論 」 に立った。 06年2月、社民党大会で違憲論が打ち出されるや、再び違憲論に戻って述べた。 「 連立政権の枠があるのでやむを得なかった 」 と。

 節操のない総理大臣の誕生は日本国の歴史の汚点である 小泉首相は、本来、この恥ずべき人物の談話を引用すべきではなかったのだ。

 村山談話にとらわれることは、自社さ連立政権当時の、異常なる政権の揺らぎの中に没し続けることだ。 そんな地平に日本の未来はないだろう。 誠実で誇りある歴史認識を、新たに打ち立てることが、次期首相の課題である。







 戦後50年目の平成7年、自社さ政権の村山富市内閣が出した村山談話と平成5年、宮沢喜一内閣でのいわゆる従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官談話の撤回をやらねばならぬ。

 平成7年6月9日、衆議院本会議で 「 歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案 」 が起立採決により可決され、同じ年の8月15日に村山談話がだされた。 そこには、植民地支配と侵略に対する反省とおびはあるが、日本を守るために命をささげた240万の靖国の英霊に対する感謝と敬意、また国際法違反の原爆投下や空襲などで犠牲になった同胞80万人に対する追悼の心の片鱗へんりんもない。

 いかなる歴史観にたとうとも、命を賭けて自分の国を守る行為は理屈ぬきに尊い。 いやしくも日本の政治家なら同じ思いで政治をしているはずであり、政治家が戦後50年目に何よりも先に思うべきことは、命とひき換えに国を守った英霊と原爆投下に象徴される許すことのできない非道かつ不法な攻撃で殺戮さつりくされた民間人への哀悼の念以外にはありえない。 当時どのような政治判断によってなされたのかは知らないが、このばかげた、中国、韓国、北朝鮮におもねるだけの 有害無益な村山談話を引き継がないことを日本国の総理が宣言することがわが国再生の第一歩だ

 平成5年8月4日の河野談話は、朝鮮人慰安婦を強制連行したという吉田清治なる人物の話をきっかけに広がった日本軍関与説を認め、「 心からお詫びと反省 」 をのべ、これを歴史教育にも生かすと表明した。 ところが後日この吉田の話がうそであることが明らかになり、談話にかかわった石原信雄元官房副長官も強制を認めたものではないと語ったが、歴代内閣はこの談話を検証しようともせず、漫然と引き継いできた。

 その不作為と事なかれ主義により、日本がいわゆる従軍慰安婦を強制連行したという不名誉な嘘が事実として世界に流布され、平成19年7月30日、アメリカの下院で非難決議がなされた。 そのなかで日本は 「 強制的軍売春である 『 慰安婦 』 制度 」 をつくり、「 その残忍さと規模において、輪姦りんかん、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないものであり、身体の損傷、死亡、結果としての自殺を伴う20世紀最大の人身売買事案 」 と書かれている。 とうとうわが国は人さらいの強姦殺人国家に仕立て上げられたのだ。




 このような事実無根のいわれなき非難について、日本国政府はまともな反論をしなかったが、作曲家のすぎやまこういちさんは私財約2千万円を投じてワシントン・ポストに意見広告を出した。 心ある言論人と一部の政治家が名を連ねた。 本来自国の名誉を守るのは政府の仕事である のにそれをせず、この崇高な行為について政府はコメント一つださなかった。

 悲しいことに、これらは自民党政権下のことである。 下野して反省すべきことは多くあるが、「 ( カルタゴの滅亡が示すように )自らの安全を自らの力によって守る意志を持たない場合、いかなる国家といえども独立と平和を期待することはできない 」 ( 塩野七生著 「 マキアヴェッリ語録 」 )。 事なかれ主義が日本の政治をだめにしてきたことを自覚すべきだ。

 菅直人首相は日韓併合100年にあたり、反省と謝罪の談話を発表するらしいが、一体何のためにするのか。 仙谷由人官房長官は戦後個人補償に前向きとも受け取れる発言をしたが、戦争被害で国と国とが最終決着した平和条約( 日韓基本条約 )を無にするようなもので、国際法上の正義に反した、不用意かつ不見識というほかない。 のみならず、平和条約が締結された以上個人補償は認められないとする最高裁判決に反した、法的にも間違った発言である。

 何よりもサンフランシスコ平和条約で課せられた前例のない苛酷な賠償条件を受け入れて、独立を回復して国際社会に復帰し、賠償を誠実に履行したわが国の戦後の歩みそのものを否定するものであり、日本の政治家として絶対にあってはならない発言だ

 一体この国はどこへ行くのか。 そして何を目指すのか。 靖国の英霊に恥じない 「 自らの国は自らが守る 」 という気概を政治家が取り戻すことなくして、この国の将来はない。





( 2015.02.05 )



 これは異なことを耳にすると驚いた。 自民党の二階俊博総務会長が3日、安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話について、こう述べたからだ。
「できれば全党一致が望ましい。 各党と調整を図るのが当然だ。 ( 共産、社民両党とも )私なら話し合いをする」
 はて、過去の首相談話で野党と事前に協議した例があったかしらんと考えたがとんと思い浮かばない。 植民地支配と侵略を謝罪した戦後50年の 「村山談話」 も戦後60年の 「小泉談話」 も、野党と調整したなんて話は聞いたことがない。

 そもそも、歴史観も国際認識も目指す社会も全く異なる政党の意見・主張を取り入れて、一体どうするというのか。 そんなことが可能で有意義だと本気で考えているのか ──。

 一方、1月29日付毎日新聞夕刊の記事 「 『戦後70年談話』 は必要か」 には、村山談話発表時の政府高官( 匿名 )のこんなコメントが載っていた。
「あの談話は、自民党単独でも社会党単独でもなく、いろんな思想の人たちが集まって決定しました。 ( 中略 )村山( 富市首相 )さんの熱意が大きかったのは確かですが、決して個人の思想などではなく、心ある政治家たちや行政の人たちの思いが一つになった内閣総理大臣談話なんです」
 これにも強い違和感を覚えた。 この政府高官は、あたかも衆知を結集して談話を作成したかのように語っているが、実際はごく一部の人間で話を進めていた。

 それどころか、村山内閣の閣僚すら事前に談話が発表されることも知らされていなかったのである。 村山内閣の総務庁長官だった江藤隆美氏と運輸相だった平沼赳夫氏はかつて、産経新聞の取材にそれぞれ次のように証言している。
「( 8月15日の )閣議で突然、首相談話が出てきて仰天した」 ( 江藤氏 )
「事前の相談は全くなく、唐突に出た。 ( 村山氏は )社会党出身とはいえ、何でこんなの出すのかなと思った」 ( 平沼氏 )
 村山氏は自らの内閣の閣僚に対してすら、だまし討ちをかけたといえる。 しかも当時の野坂浩賢官房長官は著書で 「異議を申し立てる閣僚がいれば、内閣の方針に合わないということで即刻、罷免するつもりでいた」 と明かしている。

 また、村山談話をめぐっては河野洋平元官房長官が平成21年7月29日付朝日新聞朝刊で、こんな 「告白」 をしている。
村山・河野・武村( 正義さきがけ代表 )の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作った
 これがくだんの政府高官のいう 「心ある政治家たち」 の正体ということだろう。 毎日新聞はこうした事実関係を無視して、村山談話の聖典化でも図るつもりかと勘ぐりたくなる。
 村山氏自身は 『村山富市の証言録』 ( 新生舎出版 )の中で、後の首相も村山談話を踏襲すると思ったかと聞かれ、こう答えている。
「いやいや、そんなことまでは想定してませんでしたね。 ( 中略 )後の首相がそれを踏襲してくれるだろうというような、期待はあったにしても、誰がなるかわからないのでね、そこまで考えて談話を出したわけではないね」
 もとより、その程度の話なのである。 村山談話を絶対視し、金科玉条のように扱う人々は、どこか政治的意図をうかがわせてうさん臭い。